山田チカラ 山田 チカラ Chikara Yamada

既存の枠にとらわれない料理への想い

世界で最も予約の取れないレストランといわれたスペインの「エル・ブリ」で研鑽を積み、茶懐石を取り入れた独自の創作料理で国内外の人々を魅了する山田チカラ氏。「エル・ブリ」のフェラン・アドリア氏を始め、運命と数々の出会いを味方につけ、枠にとらわれない快進撃を続ける山田氏の活躍から目が離せない。

ジャンルにとらわれない料理は、斉藤元志郎氏の影響

山田チカラ氏といえば、世界最高のレストランといわれたスペインの「エル・ブリ」でフェラン・アドリア氏に師事したことで有名だ。一方で、茶懐石を取り入れた料理やもてなしも、山田氏を語る上で欠かせない。枠にはまらず、常にエネルギッシュに(どこかシャイなたたずまいも備えながら)、自身の世界を発信する。それが人の目を引き、八面六臂の活躍を続けている。

山田チカラ氏

料理を目指したのは「故郷を出たい」という一心だった。高校卒業後、熱海・大月ホテルに就職し、フランス料理「ラ・ルーヌ」に配属された。

「ラ・ルーヌの料理長だった斉藤元志郎さんが、部下を外に出す人でした。流行の店に派遣して勉強させる。それで、神戸のある店の立ち上げに携わった時に阪神・淡路大震災に遭ったのです」

店の計画も頓挫し、これを機に23歳で渡欧。6年の滞在中、バルセロナで2店舗を経営した。帰国後は斉藤氏が開業した赤坂「旬香亭グリルデ・メルカド」に勤め、再び薫陶を受ける。

「ジャンルにとらわれない料理は斉藤さんの影響。山田なんて知らないと言いそうな方ですが、恩師ですね」

料理の信条は何を作るかより、お客の望みを叶えること

チャンスが訪れる。来日したアドリア氏のエスコート役を担い、「あなたの元で働きたい」と直談判すると了承され、再びスペインへ。1年半、アドリア氏の元で研鑽を積んだ。「大勢の料理人にいろんなものを実験的に作らせて、洗練させていく。天才的な人です」と振り返る。

「フェランからは、すべてに疑問を持てと言われました。なぜ日本では、昆布と鰹で出汁をとるのか。すべてを理解してからやれ、と」

帰国して旬香亭に戻ると、斉藤氏に「エル・ブリの通りにやれ。最初は理解されなくても、やり続けろ」と言われた。結果、山田氏は亜酸化窒素を使ったエスプーマの第一人者として名を博すこととなる。料理の信条を問うと、シンプルな答えが返ってきた。

「何を食べさせたいかより、お客様が望んでいるものを察すること。今でも日々勉強です」

作家ものの陶器が好き

「山田チカラ」にはダイニングの他に茶室を用意していて、食後にお茶のおもてなしをしている。

「茶器は今、山口県萩市の濱中史朗さんの作品が多いですね。お父様は有名な萩焼の窯元なのですが、本人は長髪に革ジャンのスタイルで、人骨の美しさにインスピレーションを得て独自の作品を作っている。作品だけではなく、その寡黙な人柄にも引かれて、茶器だけでなく料理の器もこちらのイメージを伝えてオリジナルで作ってもらっています」

静岡県の出身の山田氏。山田氏の祖父母は茶農家だったので、お茶は昔から身近な存在だった。だが、本格的な茶道や茶懐石を知って衝撃を受け、料理にも取り入れるようになったのは、修業でスペインに行き、帰国した後のこと。

「スペイン料理やフランス料理などのジャンルにとらわれない料理に茶懐石を取り入れた、自分のスタイルとして定着させるようになったのも、自分の中では自然なことでしたね」

  • 山田氏が集めている陶器
  • 「山田チカラ」茶室

Photo Masahiro Goda Text Rie Nakajima
※『Nile’s NILE』に掲載した記事をWEB用に編集し掲載しています