てんぷら近藤 近藤 文夫 Fumio Kondo

挑戦し続けるてんぷら職人

天ぷらの名店としてつとに知られる銀座の「てんぷら近藤」。職人歴50年以上となる主人の近藤文夫氏は名人の貫禄を備えるが、若い頃から「新しい天ぷら」への挑戦を続けてきた革新の人でもある。今もカウンターで天ぷらを揚げ続け、かつ、後進の職人、家庭、そして世界に向けて天ぷらの技術を情熱を持って伝える。

職人歴50余年を経てなお未だ現役
その究極のてんぷら人生

天ぷら職人歴50年以上。「てんぷら近藤」の近藤文夫氏は、長きにわたりこの道を開拓してきた名人中の名人だ。70歳を過ぎた今も昼、夜ともにカウンターに立ち続け、お客の目の前で天ぷらを揚げ続ける。

近藤氏のキャリアの始まりは、御茶ノ水の「山の上ホテル」。ホテル内の「てんぷらと和食 山の上」にて18歳で修業を開始し、23歳で料理長に就任。「店が厳しくて、先輩たちが辞めちゃったから」と笑うが、当時、同店はホテル内の不採算店。社長から「何をしてでも売り上げ上昇を」との命令が下り、近藤氏は考えた。「天ぷらを和食の添えではなく、ジャンルとして確立できないか」と、フランス料理、イタリア料理、日本料理を考察。そこで「天ぷらにも野菜が必要」と着目する。

24歳の時に社長の同意を得て、当時魚介類のみが基本だった専門店の天ぷらでは異例の、「野菜の天ぷら」を打ち出した。

「『野菜なんて総菜』『邪道』と随分たたかれましたよ」と近藤氏。さらに、野菜の風味と色を生かすには薄衣が向き、揚げ具合も色づかない程度が最適である、と工夫したが、これも従来とは正反対としてたたかれた。しかし、お客からは強い支持を獲得。それを支えに、近藤氏は自分の信じる天ぷらを追求する。細切りのにんじん、厚みのあるさつまいも、そら豆のかき揚げ、アスパラガス……。次々と新しい天ぷらを創作し、それらは今では多くの店で定番として浸透するまでに至っている。

さらに、長く「職人の勘」とされてきた天ぷらの技術を、書籍で詳しく公開。また、「天ぷらは余熱(蒸し)料理」と唱え、天ぷらを新しい視点から捉えなおした。天ぷらは「ただ揚げる」のではなく、奥深い加熱技法であることを、後進の職人たちに、また世間一般の人たちにわかりやすく伝え続けてきた。
「てんぷら近藤」近藤文夫氏

「なぜ新しいことをしたり、技術を積極的に言葉で説明してきたかというと、天ぷらに廃れてほしくないから」と近藤氏。「天ぷらは挑戦です。素材の旨みを引き出す。それが我々の仕事」と誇りを持つ。

「若い世代の職人に、これからもずっと天ぷらをもり立てていってほしいですね」

シンプルな道具でも自体に合わせて工夫すべき

「天ぷらで使う道具は、ごくシンプルです。ただ、時代に合わせて工夫はすべきだと私は思っています。『昔からこうなんだ』という意見には、あまり感心しませんね」

基本は、衣を混ぜる太い箸、揚げる際に使う下半分が金属製の揚げ箸。穴杓子は、かき揚げを作る際に使う。かつては玉杓子が定番でしたが、衣をできるだけ薄くするには穴があったほうが便利だという。

「ただ、市販のではなく、特別に作ってもらっています。穴の数はそんなになくていいのですが、衣がしっかりと流れ落ちるには、杓子の一番底にあたる中央に穴があいていることが重要。意外と、市販のものは中央には穴がないんです」
「てんぷら近藤」近藤氏の道具

泡立て器は、「職人がこんなものを」と言われるかもしれませんが、衣の生地を混ぜる時にはやはり便利です、と近藤氏。

「ただ、混ぜ具合には気をつけなくてはなりません。グルテンが出ないよう、手早く。その頃合いの見極めは大事です」

Photo Haruko Amagata
※『Nile’s NILE』に掲載した記事をWEB用に編集し掲載しています