厲家菜 銀座 厲 愛茵 Aiyin Rei

医食同源に美味を加えた宮廷の料理を継承

かつて、清朝の皇帝の食を預かる職にあった厲家。その献立を再現した料理を提供しているのが厲家菜(レイカサイ)だ。皇帝の健康に寄与することが最優先され、かつ美味も要求された料理。厲家菜の初代から数えて4代目となる、厲愛茵(レイアイイン)氏が、歴史ある品々を今に引き継ぐ。

西太后の美と健康を支えた料理を伝えていく

京市の北部には、胡同(フートン)と呼ばれる古い街並みがところどころに残っている。その一角にて1985年に厲善麟(レイシャンリン)氏がオープンした「厲家菜」は、中国の清代、とりわけ西太后の時代(19世紀末)の宮廷の食事を伝えている。起源は、清王朝の宮廷内で料理の責任者を務めていたという厲家に伝わる料理。

日本には2003年に六本木ヒルズ内にオープンし、16年に現在の場所である銀座に再オープン。北京店、銀座店の両方を指揮するのが、善麟氏の娘に当たる厲愛茵(アイイン)氏だ。

「西太后は、平均寿命が40歳ほどだった当時にあり、74歳まで元気に生きました。美食家として知られていますが、美味なだけでなく、美容と健康によい食事を摂り続けていたからこその長寿です。食事の内容は、毎日の体調に応じて、宮廷の医師と料理責任者が連携してメニューを決めていました。医食同源に美味を加えた、真に贅沢な食生活を送っていたのです」と、厲氏。

そんな宮廷の料理を引き継いでいる厲家菜。料理では厳選した食材のみを使い、その風味、栄養素を最大限に生かすことを旨とする。当然、化学調味料は使わない。調理技術は、宮廷の技を継承。そして、実際に皇帝の食卓に上った料理ならではの洗練や風格を備えた品々を提供する。

実は、厲氏は大学で医学を学び、内科医として働いたが、辞めて、料理の道に進むと決めた。

「子供の頃から料理が大好きでした。医学を修めましたが、その知識や理科系の思考は料理にも役立っていると思いますよ(笑)。『なぜ、この切り方、加熱の仕方をするのか?』『食材のどんな成分が、体にどんな効用をもたらすのか?』など、料理の理解が深まります」と厲氏は話す。

また、「私は料理を父から学びました。他の料理店などでは学んでおらず、知っているのは厲家菜の料理のみです。その分、厲家の味を正しく継ぐことができます」とも言う。一般的な高級中国料理とは一線を画す、西太后の美と健康を支えた料理を北京で、そして東京で伝え続ける。
「厲家菜」厲愛茵氏

大臣だった曽祖父、教授だった父

「厲家菜のルーツは皇帝の食卓にありますが、より具体的に言うと、その食を預かる立場にいた私の曽祖父にあります」

西太后を始めとする皇帝の食事は、毎日の体調に応じて、宮廷の医師と料理責任者の協議で決められていた。その料理責任者が厲氏の曽祖父だったそう。ただ、料理責任者といっても料理人ではなく官僚で、料理を管轄していた内務府の総理大臣という立場。宮廷の中枢にある、要職だったようだ。

「後に清王朝が崩じてからは、曽祖父は宮中の献立書を保持し、宮廷料理人を自宅に連れ帰り、かつての皇族や遺臣に料理を振る舞ったそうです。それが『厲家菜』、すなわち『厲家の料理』として知られるようになりました」

そんな「厲家の料理」を客人に振る舞いつつも、厲家の人間は、本職は官僚や学者となるのが習わし。厲氏の父親も、本職は数学の大学教授。その一方で、厲家の厨房を遊び場にし、専属料理人たちに料理を教わるほど、幼い頃から料理が好きだったそう。それで、長年本職の傍らで厲家の料理を追求し、ついには自宅の一室にてレストランとしての「厲家菜」をオープン。それが1985年のことだ。

「私も医学の道に一度は進みましたが、料理が好きで、厲家菜で料理人になる道を選びました」

なお宮廷の中枢にいた先祖にちなみ、当店では皇帝を意味するさまざまなアイテムを店内の随所に取り入れている。エントランスにある黄色い衣装は、皇帝の色である黄色で、皇帝の象徴である龍が刺繍してある。

厲家菜のエントランスにある黄色い衣装

Photo Masahiro Goda
※『Nile’s NILE』に掲載した記事をWEB用に編集し掲載しています