赤坂 桃の木 小林 武志 Takeshi Kobayashi

中華の枠を超える、新しい試みを

38歳の時に「御田町桃の木」を開業。『ミシュランガイド東京』ではわずか開業5年で二つ星を獲得した小林武志氏。2020年に「赤坂 桃の木」として紀尾井町移転オープン。中華の王道を行きながらも、中華の枠を超えた挑戦を続け、新たな料理を生み出す、小林氏新たなる境地とは。

新生・桃の木

御田町で熟成のときを経ること15年、小林武志氏率いる中華の名店「御田町 桃の木」が、「赤坂 桃の木」として紀尾井町・東京ガーデンテラス紀尾井町3階に移転オープンした。

3月3日―桃の木が新たなスタートを切るのに、これほどの吉日はなかった。なぜなら〝桃の縁〟が重なるからだ。この日は言わずと知れた「桃の節句」。女の子の成長を願う親の気持ちは、そのまま小林さんが店に託す思いに通じる。また店名は、司馬遷の『史記』にある「桃李成蹊(とうりせいけい)」に由来するもの。「桃李不言 下自成蹊」、つまり「桃や李(すもも)は何も言わないが、美しい花や香りの良い果実を求めて人が集い、その樹木の下には自然と道ができる」というこの言葉に込めた思いを、桃が象徴する。しかもこの日は、小林氏の誕生日。めでたさ百倍である。

「桃の木」店内画像
広々とした店内。落ち着いた雰囲気に、明るく華やかな彩りが映える。“ゆったりレイアウト”がうれし い。またワインのラインアップがより充実。ソムリエを兼ねるフロアスタッフとのワイン談議も弾みそう。

それにしてもなぜ小林氏は〝住み慣れた〟御田町を離れることを決めたのか。「以前からいくつも移転の誘いを受けていた」そうだが……。

「実は10年ほど前に一度、移転を考えたことがあるんです。ただ当時は、大きな所に移るより、逆に改装して席数をぐっと減らすという選択肢を採りました。余裕をもって、より丁寧に料理と向き合いたいと思った。その考えがここ3、4年でまた変わってきました。海外で仕事をさせていただく機会が増えて、大人数で料理をつくり、たくさんの人にバン!と出す、そういうスタイルに面白さを感じたんです。そんな折、お客さんとしてお越しくださった占いの先生が、『桃の木さんのバイオリズムは2020年からぐーっと上がりますよ。人との縁があるし、お店が新しくなる気配を感じます』とおっしゃって。そのタイミングで紀尾井町のここを紹介していただく縁もあり、『よし、移転だ』と即決しました」。

小林氏はまた、東京ガーデンテラス紀尾井町というこの場所に、「特別な、自分に合う、強くていい気が満ちている」と感じたそうだ。

食材にはもはや〝中華の枠〟なし

「桃の木」店内画像
大きな窓いっぱいに広がる、都会と自然が入り交じった景色は、お店を飾る絵画のよう。 とくに春になると、お堀沿いの桜が美しく、見事な〝借景〟を成す。パーティションをはずせば、大人数の会食にも対応できる。

新しい桧舞台「赤坂 桃の木」は、御田町の店よりずっと広い。でも席数はほとんど同じなので、〝ゆったり感〟が増した感じ。とりわけ奥の窓際の個室では、お堀が浮かび上がるような美しい夜景を眺めながらの食事が楽しめる。

広さの極は厨房にある。何と御田町時代の約6倍! ガスの口数も半端なく多いここで、強い火をガンガン燃やしながら、小林氏以下6人のスタッフが腕をふるう。

「今まではほぼ一人で料理をし、小さい店ならではの精度にこだわったおいしさを追求してきました。これからはスタッフが増える分、料理も変わります。仕込みにも調理にも仕上げにも、より手がかけられるので、今まで以上に手の込んだ、繊細かつ重厚な味わいを目指したい」と言う小林氏は、「これまで通り、中華の王道を行きながらも、とくに食材に関しては中華の枠を超えた試みに、積極的に取り組んでいきたい」考えだ。

香港や中国、台湾などでは、すでに和や洋の食材をふつうに取り入れている。そんな現状に鑑みて、「食材にはもはや〝中華の枠〟なし」と判断したわけだ。具体的には、例えば食材ならトリュフ・フォアグラ・キャビアなど、調味料ならバター、オリーブオイル、ワサビ、ポン酢、ナンプラーなど、今まであまり使わなかった素材を取り入れつつ、世界で通用する味を追求していく考えだ。

「新しいアイデアって、不思議と夜眠りに入る直前に湧いてくることが多いんですよ。朝忘れていないよう、枕元にメモを置いています」

新しい挑戦に向け、ますます気力充実。声を弾ませる小林氏である。

「桃の木」看板
柳田泰山という著名な書家の手になる扁額(へんがく)。「御田町を改装した10年前に 書いていただいた」という。桃の木の来し方行く末を見守る家宝である。

映画『二ツ星の料理人』と修業時代

「『二ツ星の料理人』という映画があったのをご存じですか? とても面白い映画なのですが、主人公の料理人が、朝も夜もなく働いているのを見ると、自分の修業時代のことを思い出します」と小林氏。

そんな小林氏も「知味 竹爐山房」での修業時代は、朝の7時から夜は終電ギリギリの12時30分まで、毎日17時間半労働だったそう。水曜は店の定休日なのだが、水曜も午前中は仕込みをしなければならない。でも、その後に近くの「北京遊膳」でランチを食べるというのが、当時、唯一の楽しみだったと語る。

「料理の世界に入ったのは、お茶を嗜んでいた母に食事の準備を手伝わされたり、瀬戸の窯元に連れて行かれたりしたことが影響しているのかもしれません」

小林氏は高校を卒業後、愛知を出たい一心で、大阪の辻調理師専門学校へ。中国料理を選んだのは、田舎の町の中華屋さんとは違う、多彩な中国料理がとても新鮮だったし、おいしかったからだそう。就職は銀座の福臨門に決まりかけたが、別の人が行くことになり、流れで辻調理師専門学校の職員として働くことに。8年間、熟練の先生たちのそばで中国各地の料理を学んだ講師生活が、小林氏のベースとなっている。

「専門学校の後、大好きでよく食べに行っていた『知味 竹爐山房』の山本さんに誘われて、もううれしくて二つ返事で働き始めました」
「桃の木」厨房と小林氏

ただ、学校では夕方6時には仕事が終わる日々だったのが、店ではそれからが勝負。「生活スタイルがガラッと変わった上に、初めての現場にカルチャーショックを受けましたね」と小林氏。

「料理はもちろん、掃除や片付けにも殺気がみなぎっていて、仕事が丁寧だから時間がかかるのです。竹爐山房で2年間鍛えられた後、紅虎餃子房で有名な際コーポレーションで2年働いたのですが、そこでまた中島武社長に「修羅場不足」とケチョンケチョンに言われて(笑)」

際コーポレーションでは、いろいろな店を回って指導したりする役割だった小林氏。大変ではあったものの、そこで四川、広東、上海の中国各地の特一級の資格を持つ料理人と仕事をした経験が、小林氏にとっての修業の仕上げだそうだ。

「中国は地域によって民族も違うから、考え方も料理のスタイルもまったく違う。日本にいながら、それをリアルに体感できたことが本当に幸運でした」

Photo Masahiro Goda Text Junko Chiba、Rie Nakajima
※『Nile’s NILE』に掲載した記事をWEB用に編集し掲載しています