麻布 かどわき 門脇 俊哉 Toshiya Kadowaki

料理は、人を幸せにする力がある

幸福を呼ぶ料理

「麻布 かどわき」の主人、門脇俊哉氏の料理は実に幅が広い。キャビアやトリュフを大胆に用いた品と、しみじみとした味わいが魅力の伝統的な品を自在に組み合わせてコースを構成。確かな技術をベースに、「お客さまの喜びのため」というサービス精神を徹底することで生まれる品々は柔軟で時に異色、かつ格調を備え、そして何よりも味で感動を呼び起こす。

意図しない流れから始まった料理人人生

「麻布 かどわき」を40歳で構えてから21年。門脇俊哉氏は、食通から熱い支持を受け続ける名割烹へと自店を育て上げた。

しかし意外にも、門脇氏は意図しない流れに押されて料理の道に入ったという。

「実家が札幌ですし店を営んでおり、自分はそのマネジメントをしようと思ったのです」。ゆえに簿記の専門学校に進学し、卒業後は六本木の高級割烹「越」に経理を担当するつもりで就職。でも大将に「厨房の経験も必要」と言われ、調理場を手伝うことになった。そこで門脇氏は、先輩の動きの先を読んで準備や掃除をするなど、勘のよさを発揮。3カ月経った時には大将に「お前は逸材だ。騙だまされたと思って1年間料理をやってみろ」と言われるほどに。その後早速頭角を現し、1年後には普通なら3年目の料理人がやる仕事ができるように。さらに、多くは10年かけて到達する二番手のポジションに5年で就いた。

料理人としての成長を加速させた、道場六三郎氏の存在

門脇氏の料理人としての大きな師は、「越」の顧問で、料亭「つきじ植むら」の親方である日本料理界の重鎮、茂木福一郎氏だという。同時に、職人として茂木氏の系譜にいた若き道場六三郎氏にも大きな影響を受けた。

「とある出仕事に参加していた時、道場さんが真っ赤なベンツ、キリッとしたスポーツ刈り、黄色いジャケットをバシッと着こなして現れたんです。衝撃的にカッコよかった」

そこで、「成功して道場さんのようになりたい!」と決意、目標に向けて一気にギアを高速に。料理人としての成長を加速させていく。

独立へ向けて、背中を押されたアクシデント

ただし、その後は決して順風満帆にはいかなかった。――28歳、東京でどんどん上り詰める気で満々だった時、すし店を営んでいた父親が借金を遺して58歳で急死。北海道に帰ることを余儀なくされたが、幸運にも店と家を買い取りたいという人が現れ、借金返済を成し遂げた。その後東京に戻り結婚、そして双子に恵まれ幸福な家庭を築いていたが、子供たちが3歳を迎える前に妻が癌で他界してしまう。

「子育てのために母が北海道から来てくれました。私は家族を養うために安定した仕事に就く必要があったので、試験を受けて東天紅グループの和食店に料理長として就職。500人ほど入る宴会場がある店を仕切っていました」

その後も大型店で働き、家族のため安定を第一に料理人生活を過ごしていたところ、偶然「越」の時の大将に遭遇。「お前、今いい顔しているから店をやれ」と言われた。同じ頃、茶道の師匠からも店を構えるべきとのアドバイスが。

「借金を背負って失敗したら家族が路頭に迷うので、自分で店をやる選択肢は正直ありませんでした。ただお袋には一応意見を聞いたら、『小さい店だったらやればいいじゃない。それで潰れたらお前はどっちみちダメよ』って」

そんな時期、車を運転していたら後ろから軽くぶつけられるという出来事があった。「コン、とぶつかった瞬間、背中を押された気持ちになった。『これは店をやれということだな』と決心がついたのです」。

なおこの時門脇氏は40歳。亡き妻に「40までには自分の店を持ちたい」と話していた年齢を迎えていた。

カウンターは私のラボ

うして、2000年8月に「麻布 かどわき」はオープンした。「最初はヒヤヒヤです」とふり返る。「最初の1カ月の売り上げは、家賃と借金を払ったら少ししか残らないくらい」。ならばせめて深夜まで営業しよう、と2時まで店を開けていたところ、当時深夜族だった広告やマスコミ関係の人たちが集まる店に。「そこからなんとか盛り返すことができました」と、カウンターに食通のお客が並ぶ店へと一転した。 かどわきの看板

門脇氏は、「カウンターは、私にとってラボのようなものです」と言う。「お客さまの反応から多くを学びました。どんな料理が彼らを笑顔にするのか、あるいはサラリと流されてしまうか、徹底的に感じ取るよう努めました」。また、「『食べたらそれっきり』にはしたくなかった。しっかりと記憶に残る料理を作りたかった」とも。そんな中から、キャビアやフォワグラ、フカヒレを取り入れた料理が生まれた。 かどわきのカウンター

「でも、異色なだけでは喜ばれない。きちんと日本料理の余韻があることが大事です。またコースを考える時は、新しい料理と伝統的な料理、両方の魅力を組み合わせるよう意識します。私にとってコースは、言うなれば、ヒット曲メドレーのCDのようなもの。サザンもあればドリカムも美空ひばりも、AKBもある。そして最後は皆が好きな曲で思いきり盛り上げます」

人の感情を変える――それが料理、料理店の力

お客に「楽しい時間を過ごしたな」と感じてもらうよう、全力を尽くす。「料理は、人を幸せにする力があるんです」と門脇氏。

「こんなことがありました……ある常連のご夫婦のお客さまが、ケンカ直後なのか、微妙な雰囲気で店に来られて最初はギクシャクしていた。それが料理とお酒を召し上がるうちにお二人がだんだん和やかになっていったのです。お帰りになるときは、手を繋つないでいらっしゃいました」

コースの2時間の間で、これほどまでに人の感情を変えることができる。それが料理、そして料理店の力なのだ。

さらに門脇氏は「料理は平和です。国境がありません」とも言う。たしかに、仮に政治的な対立をしている国があっても、その料理まで人は嫌いにならない。中国料理もフランス料理も日本料理も、国境を超えて楽しまれている。人をワクワクさせる。

「平和の祭典というと音楽やスポーツがありますが、料理もそこに加わる力が十分にあると思います。なので、料理人仲間の輪を広げて、平和の象徴としての料理の祭典を開きたい。いつか実現したいですね」

そんな料理を信じる力が、円熟を迎えた門脇氏をさらに前進させる。

  • 折敷
    人間国宝の輪島塗の漆芸家、前大峰氏の手による折敷。大峰氏が折敷を手がけるのはめずらしい。深い紅色、繊細に描かれた植物紋様が圧巻。
  • 器
    色鮮やかな交趾や、華やかあるいは大胆な絵付けで知られる永楽焼の器は、大正時代や昭和初期のものを揃える。落ち着いた格調は、骨董ならでは。

Photo Satoru Seki