日本料理 かんだ 神田 裕行 歓喜の天地、丹波

霧に包まれた「豊穣の国」奥丹波

京都の背後に広がる丹波。古えより風と水と土が調和する肥沃な土地として、「四神相応の地」と讃えられた都の穀倉であった。この豊穣の地、丹波に生きる人々は、時候折々の地の幸を食し、日本海と瀬戸内の海の幸を料理し、自然の恩恵に与り続けてきた。丹波とはどんな土地なのか。
ミシュランで三ツ星の評価を受け、またNPO法人「FUUDO」の立ち上げメンバーでもある、日本料理「かんだ」の店主、神田裕行さんと丹波を探る旅に出た。

Photo Masahiro Goda Text Junko Chiba

テロワールの誘い

列車で丹波に向かうと、大阪からだと三田、京都からだと亀岡の辺りから、霧が深まっていく。その霧に潜むように広がるのが丹波。さらにその奥には、大きな壁を成す山々の間に沈み込む“地面の割れ目”のような地域、奥丹波がある。ここ丹波市氷上町石生では、「日本の背骨」と呼ばれる南北に連なる山々が寸断されているため“地面の割れ目”となっている。今回、この不思議な地形が広がる奥丹波を旅した。

丹波の里山
田んぼが広がり、そこに張り付くように家々が並び、そこを囲むように山々が連なる。そんな丹波の里山は春秋、美しい霧の風景を描き出す。

ここには、南の瀬戸内海からの暖かな風と、日本海側の雪国からの冷たい風が吹き込む。その両方の風が運ぶ温度差の激しい空気がぶつかって、霧を発生させる。

「昔は京都も霧が多かった、田んぼが少なくなる所から順に霧が減るとも言われますが、地形の影響が大きいのでしょう。山に囲まれて閉じた地域は雨が降ると、山から流れ出る土砂が溜まって扇状地になります。田んぼができるずっと昔、丹波は湿地だったのです。こうした特殊な地形だからこそ、日本の生産力の要である米の生産地としての豊かさを享受できたんですね」と語るのは、環境コンサルタントの宮川五十雄さん。4年ほど前に、丹波に惚れ込んで西宮市から移住した“入り人”だ。

「ここは本当にいい風が起きる。南西諸島から日本海に抜ける渡り鳥のルートの一つにもなっていて、よく珍しい鳥が観察されます。植物がまたおもしろくて、雪国との境目の地域に多い樅の木があったり、神社などでは南国の木が見られたり。魚も、オヤニラミやイトモロコなどの南方系の魚が北の由良川に、北方系のホトケドジョウやアブラハヤなどが南の加古川に分布を広げて、今は同じ河川に共存しています。50年ほど前には、日本海側の河川に生息するヤマメと太平洋側の川に棲むアマゴが佐治川で混生しているのが見つかった珍しい水域です。生き物たちは風や水に敏感に反応しながら交流してきたのでしょう。私たち人間にとっても“地面の割れ目”は、格好の通り道。そこに多様な文化の混在する、得体の知れない魅力があると思います」

「丹波」の地名を紐解くと

現在の行政区分で言う丹波市は、2004年に兵庫県氷上郡の6町――柏原町・春日町・市島町・青垣町・氷上町・山南町が合併して誕生した新しい市である。これとは別に「丹波」という地名にフォーカスした時、大きく二つに分けられる。丹波市と篠山市の「兵庫丹波」と、亀岡市・南丹市・船井郡京丹波町・綾部市・福知山市を擁する「京丹波」だ。

さらに時代を遡れば、丹波に兵庫も京都もなく、但馬や丹後などを含む広大な国だった。地名の由来には諸説あるが、中でも興味深い『丹後国風土記』にある記述を紹介しよう。

「食物・穀物を司る女神・豊宇気大神が伊佐奈子嶽に天降られた時、天道日女命たちに五穀と桑や蚕などの種をお願いされた。そこでその山に真名井を掘って灌漑し、水田陸田を作り種を植えた。すると、秋には稲が稔った。大神は喜んで『まことに立派に稔った田庭だね』と言い、高天原に帰って行った」――この「田庭」が「たにわ」と読む丹波の語源になったと記されている。また、丹波が昔から稲作の盛んな地域であったことの裏付けにもなるだろう。

「丹波市は、“大きな丹波”から見ても、また気候・風土的にも“奥丹波”と呼ぶのがしっくりと合いますね」と宮川さんは言う。

山石部(いそべ)神社
山石部(いそべ)神社。この辺りのご先祖、山石部(いそべ)の民は大きな岩を使って、古墳や田んぼを造る土木工事が得意な人たちだったという。後世、この神社にはいろいろな神様が招かれ、氷上町石生の人たちの守り神としてお祀りされている。

都を支える巨大な「一等国」

「丹波は京都の朝廷にとって、亀岡や篠山という城下町の背後に広がる豊かな懐深い土地でした。その奥深さ自体が朝廷を支えていた。米がたくさんとれる穀倉としての価値だけでなく、脅威となる日本海の方の勢力を牽制する意味でも、要になるポジションですよね。しかも交通の要衝です。出雲から都へ抜ける通り道ですし、瀬戸内の物産の中には、淀川ではなく加古川ルートで都に運ばれるものもありました。それゆえに文化がごちゃ混ぜ。丹波中のあちこちに、出雲系やら京都・奈良系やらの神社仏閣の分社があるのは象徴的ですね。また、さまざまな地域を連想する苗字があることから、各地の有力者が丹波に領地・荘園を有していたことも推測できます。今も旧6町に集落単位の思考回路があるのはその名残。豊かさと多様さを維持している理由でもあると思います。このように昔から人が住み、人が行き交う丹波は朝廷にとって近くに控える『一等国』だったわけです」

実際、朝廷は丹波を“特別扱い”しており、宮中でも一番偉い人が赴任する場所と格付けていた。奈良時代にすでに氷上に都の出張所があり、都の勅使が頻繁に通っていた様子。都に繋がる数本の街道に加えて「雨で平野部を通れない時のために「日出道(秀でた道)」というルートがあった」そうだ。都と深くつながっていた証と言えよう。

このことは、奥丹波においしいものが多いこととも関係する。なにしろ“朝廷の食事”を再現するようなものだから、品質の高い食材を供さなければならない。もともと肥沃な土やきれいな水、朝晩の寒暖差など、作物に良い影響を与える要素が揃っていて「何を作ってもおいしくできる」土地ではあるが、いっそうの品質向上を目指して努力を続けたに違いない。

「水分れ」の不思議

日本列島は中央を延々5000kmにわたって南北に走る山々のライン――中央分水界で真っ二つに分かれる。1000~3000m級の山々の頂上付近を境に、水の流れが日本海側と太平洋側に大きく分かれるのだ。この中央分水界には標高がわずか95mの低地がある。氷上町石生付近の「水分れ」と呼ばれる、本州内陸部で最も低い中央分水界である。

ここに雨が降ると、水が二手に分かれる。一方は日本海に注ぐ由良川へ、もう一方は瀬戸内海・太平洋へと続く加古川へ流れていく。山ならば何の不思議もないが、これが低地帯で起こるのだから奇怪である。二つの川に沿って田園風景が広がるこのありふれた細長い低地帯が、あたかも日本海と太平洋を結ぶ一つの道のように見える。宮殿や寺院の回廊になぞらえて「氷上回廊」と呼ばれる所以だ。「人間を含むさまざまな生き物が行き交う」縮図がここにある。

  • 「部神社」の石碑
    綾部藩家老の末裔、九鬼隆一男爵が建てた「部神社」の石碑。九鬼の妻・波津子と岡倉天心の恋愛事件は政・官・芸術界の話題となった。
  • 水分れ公園にある本州一低い“中央分水界”
    水分れ公園にある本州一低い“中央分水界”。この高谷川の土手に降った雨は、北へ流れると由良川へ注ぎ日本海へ、南へ流れると加古川から瀬戸内海へと注ぐ。

「水分れ付近を流れる高谷川は大昔、天井川のようになっていて、大雨が降るたびに山の土砂をどんどん運びました。その土砂の加減で右・左どちらかに分かれる。やがて高谷川が自然堤防になって、日本海側と太平洋側の二つの水の流れを形成した、という感じですね。高谷川が青垣町の方から流れてくる佐治川(加古川)とぶつかる辺りは、しょっちゅう洪水を起こしました。辺り一面水浸し状態だったでしょう。エジプトと同じで、度重なるその洪水のおかげで土が肥え、奥丹波一帯でおいしいお米がとれるようになったのです。中には『汁田』と呼ばれる粘土質の水はけの悪い田んぼもあって、日照りには強いけれど、扱いは大変。農機具メーカーでは、丹波と新潟県の南魚沼の田んぼが“厄介な”地域だそうで、ここで動けば全国どこの土も耕せる“合格”を出す、という話を聞いたことがあります」

向山連山の展望台から低地を眺めると、右に春日町に向かって広がる由良川水系の水田地帯、左に加古川水系の水田地帯が開けている様がよくわかる。洪水と水分れと田んぼの織り成す関係が、米蔵・奥丹波を形成していったのである。

丹波
「水分れ」の名が文献に初めて登場したのは200年ほど前に発刊された『丹波志』。「地頭と領家との間に谷川あり。水分れ川という」とある。丹波市の依頼で宮川さんが作成したウェブページ「氷上回廊」(https://www.tamba-hikamikairo.com/)もわかりやすい。

盤座から見えること

宮川さんによると、「奥丹波は全域のっぺりした農村地帯で、裏山の範疇の山が続いているが、一部急峻な岩場があり、そこが信仰の場所として残されている」とのこと。水分れ付近の 部神社も、その一つだ。縁起に「頂上近くに盤座のある剣爾山の前に建てられた」とある。和銅3年(710)創建の古社である。

丹波の山はどれも木々に覆われていて、岩場と聞いてもピンとこないが、宮川さんによると「実際に歩くと、けっこう岩が多い」という。「痩せた土地には他の木が育たないので、赤松が“一人勝ち状態”なんです。だから奥丹波の山は松林が優勢でした。そこへきて、人の力でほぼ伐り尽くせちゃうのが奥丹波の山。人々が裏山感覚で山に入り、薪にする松をどんどん伐って、さらに土地が痩せて松林が広がる、という構図がありました。松茸が大量にとれたのも実は奥丹波が『常に山に人の手がはいる地域』だからなんです」

その松林が優勢だった丹波の雑木山に、近年になって杉などの針葉樹が植林されるようになった。しかし、もはや杉で商売できない時代だ。山は一種の“無法地帯”と化した。結果的に松茸の収量は減るし、山に食べ物のなくなった猪や鹿が里に下りてくるし、あまりいいことはない。

「何とか里山を復活させようということは、市でも日常的に話し合われています。ただ解決策が出ない。今がラストチャンスなので、私も奥丹波に魅せられた“入り人”として力を尽くしたいと思っています」

丹波・春日町
ここ春日町辺りには今も雑木山が残るが、青垣町では植林した杉や檜が8割を超える。丹波は針葉樹林自体を造形的に美しく見せる地域ではないだけに、里山の復活が望まれる。

土と育種がおいしいものを育てる

神田さんはこの旅で確認しておきたいことがあった。「フランス最高峰のワイン、ロマネ・コンティの故郷ボーヌ・ロマネ村の地質が丹波と似ているらしい」ということの真偽だ。

「ロマネ村はジュラ紀の地層で、下に大きな石の層がある。そこに届くくらい地中深く根を下ろしている樹齢数十年の古木に実るブドウが、おいしいワインを造ると言われています。日本でそういう所がないかと話していた時、丹波の名が挙がりました。丹波もここでしかとれない特産品が豊富。その点もロマネ村のブドウに通じますよね」。この疑問を土壌学の専門家、神戸大学大学院農学研究科の鈴木武志助教に尋ねた。

「ロマネ村のワイン畑は石灰岩が風化した、つまり枯れて細かくなった土壌です。残念ながら、日本には沖縄以外にこの土壌はありません。丹波の地層図を見ると、川沿いは沖積世第四期で、春日町はジュラ紀の古い地層、粘土質ですね。あと、市島町はちょっと変わっていて泥炭地です。複雑に思うかもしれませんが、関東のローム層は別にして、山が多い日本はどこもこんな感じです」

どうやら地質学・土壌学的にはロマネ村と丹波の共通項はないようだ。しかし鈴木助教は、こう続けた。

「ここでしかとれない作物があるという点で共通するのは、土よりも作る人の気持ちですね。ロマネ村も丹波も、地域に合う在来種を特有の環境の中で何百年と大切に育種してきた。掛け合わせなどをせずに。おいしいもののできる種がここだけで自然と選別・育種されたのでしょう」

異質な風情を醸す城下町・柏原

奥丹波が歴史の表舞台に登場するのは、明智光秀が天正7年(1579)に丹波一国を拝領して以降のことだ。その3年後に光秀は丹波亀山城を発ち、本能寺の変を起こしたが、あえなく失脚。慶長3年(1598)に織田信長の弟である信包が丹波国氷上郡内の3万6千石を与えられて柏原藩が設置された。ようやく奥丹波に光が当たった、という見方もできる。以後、明治の廃藩置県を迎えるまで、織田氏がこの地を治めた。そんな背景があって、柏原町は奥丹波の中でもやや異質な城下町としての趣を今に伝えている。

織田神社、建勲神社、成徳寺、柏原藩陣屋跡等、織田家ゆかりの地であることを偲ばせる柏原町には、古い通りが幾筋も巡る江戸の武家屋敷さながらの家並みが続く。

その中で異彩を放つのが柏原八幡神社である。万寿元年(1024)、京都石清水八幡宮の別宮として創建された神社だ。けっこうきつい石段を登った先、山の上に鎮座する。

藩政前からずっと柏原神社が見守ってきた奥丹波は、庶民の日々の営みの中で豊かさと多様性を培ってきた。その魅力が今後も脈々と受け継がれていくことを祈りたい。

  • 柏原藩陣屋跡
    柏原藩陣屋跡。柏原藩の初代藩主である織田信休が正徳4年(1714)に陣屋を造営したもの。文政元年(1818)に焼失したが、まもなく再建され、檜皮葺唐破風の玄関と桟瓦葺寄棟造の大書院は、再建当時の姿をとどめている。
  • 稲畑人形
    稲畑人形は氷上町稲畑の赤若太郎忠常氏が、この地域のきめ細かく粘りの強い土で江戸末期に制作したのが始まり。伏見人形の影響を受けた、鮮やかな色彩が特徴だ。
  • 城下町・柏原
    一度、廃絶されながらも10代にわたって織田家が藩主を務めた柏原藩。城下町・柏原には戦国時代以来の史跡が随所に残る。写真は瑞光寺。
  • 丹波市役所・柏原支所
    丹波市役所・柏原支所。6町合併前は柏原町役場だった。昭和初期の趣を伝える建築として、6年前に保存を目的に改修された。
柏原八幡神社
柏原八幡神社。信長の丹波攻めで焼失したが、天正10年(1582)に秀吉が堀尾茂助に命じて再建。本殿裏に、朱塗りの三重の塔があり、神仏習合の名残をとどめている。社殿前には、石工・丹波佐吉による見事な一対の狛犬が座す。
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神田 裕行

日本料理 かんだ 神田 裕行

Hiroyuki Kanda
1963年徳島県生まれ。大阪の日本料理店で4年半の修業後、86年にパリの板前割烹「TOMO」の料理長として渡仏。91年に帰国し、小山裕久氏が料理長を務める徳島の料亭「青柳」へ。赤坂の日本料理「basara」の料理長を務めるなど青柳グループの東京進出に尽力。2004年東京・元麻布に日本料理店「かんだ」をオープン。07年から『ミシュランガイド東京』で三つ星の評価を得ている。
このシェフについて