日本料理 かんだ 神田 裕行 歓喜の天地、丹波

丹波の土に柔らかな筍が眠る

丹波の里山を彩る竹林。土の中では、筍が今か今かと“目覚めの時”を待っている。

野趣あふれるチャレンジ。掘りたての筍を藁で蒸し焼き

「掘った筍をその場で料理する」

春の丹波を旅すると決めた瞬間、神田さんは「筍掘り」に挑むことを目的の一つに据えた。

その意をくんで、料亭旅館「大和」の余田亮一さんが、先代の女将が好んで使っていたという、とっておきの“筍名所”へと案内してくれた。そこは日本一低い中央分水界となっている氷上町石生の「水分れ橋」からほど近く。余田家の先祖代々の墓もある“村の墓地”の一角にある。

昔の人は、地震などの自然災害に強い場所を選び、先祖代々受け継ぐ墓を建てた。年寄りが「地震が起きたら竹藪へ逃げろ」と教えてくれたのを思い出す。もとより、竹の根はとても頑丈で、とんでもないところまで根を張る。その頑強な竹の根に支えられ、この墓場もずっとここにあるのだ。

現在は、里山整備の一環できれいに間伐された竹林。太い稈がすっくと伸びた立派な竹が立ち並ぶ。

急斜面での筍掘り、息を切らせて格闘するもまた一興

「一度やったことがある」と言う神田さんだが、土の中に隠れている筍を見つけるのにかなり必死の様子である。

「スコップを入れる距離感が難しいよね。筍に近すぎると、一番おいしい部分を削っちゃうから。それに根っこが強くて硬い。手強いね」などと言いながら、慎重に、だが大胆に掘っていく。

料理の名人は筍掘りのカンもいいのか、神田さんはほどなく“無傷”の筍を掘り起こすことに成功した。横で見ていた余田さんも、「なかなかの腕前!」と感心しきりである。

この日、二人が掘った筍は6本。「大和」の裏庭まで持ち帰り、藁をかぶせて蒸し焼きにした。燃え上がる炎を見つめる神田さんの顔つきは真剣そのもの。店ではあまりお目にかかれない、ワイルドな料理人の横顔を垣間見た。

筍掘りに挑戦する神田裕行さん
筍掘りに挑戦する神田さん。筍を傷つけないように距離をとり、硬い根っこと格闘すること5分。ついに掘り出した。

「今年はなかなか暖かくならなくて、まだ期待しているほどの筍が出ないんですよ。もっと気温が高くなって、3月にけっこう雨が降って、4月も3、4日おきに少しずつでも降ってくれれば、大ぶりのゴロンとした釣鐘形のいい筍がとれるんですけどね。実は今朝も方々“偵察”に回ったんですが、まだ痩せていて小さい。10日ぐらい遅れてます」と余田さん。言われてみれば、この時掘った筍もかなり小ぶりだ。

それでも自分が掘った筍はかわいい。熾き火の中で数時間を過ごした筍が食卓に供された時、塩で食した神田さんは、開口一番「うまい!」。そして「限りなく生に近い感じですね。とくに根っこがおいしい。生焼けというか、ちょっとえぐいけど、それはそれでいいじゃないですか」と評した。

同じ故郷を持つ素材でも、それを食べる場所やシチュエーションによってベストな料理法は変わってくる。「とれたて」という新鮮な素材が手に入る産地では、特に野趣あふれる料理が似合うと言えそうだ。

  • 筍に藁をかぶせて蒸し焼き
    “恵みの雨”が少なく、寒い日が続いた今年は、筍の成長が例年より遅い。でも“掘り時”をはずすと竹になってしまうのだ。
  • 筍に藁をかぶせて蒸し焼き
    筍に藁をかぶせて蒸し焼きに。「ピュピュッと薄くスライスして、塩かわさび醤油で食べたい」と、神田さんは構想する。

古から食べられてきた筍。日本の在来種は苦味ある真竹

ところで、私たちがふだんよく食べる孟宗竹は、中国江南地方の原産で、1736年に琉球経由で薩摩に移植されたと伝えられている。しかし、それまで日本人が筍を食べなかったかというと、そんなことはない。『古事記』にこんな話がある。

「伊邪那岐命が亡くなった伊邪那美命を訪ねて黄泉の国に行った時のこと。一緒に帰ろうと思っていた伊邪那岐命だが、『覗くな』という約束を破って伊邪那美命の腐敗した姿を見て、驚いて逃げ出した。追っ手の黄泉醜女に追いつかれそうになり、髪飾りを投げると、筍が現れた。黄泉醜女がそれを食べている間にまた一目散に逃げ……」

日本人が古くから筍を好んで食べていたとわかるが、この筍は苦味の強い真竹と思われる。それもまずくはないが、日本人が筍好きになったのは孟宗竹あってのことだろう。太く柔らかく香りもいい。

今では日本中に孟宗竹が自生しているが、特に赤土で北側に向いている急斜面のものがおいしいらしい。さらに冬に土の表面を掘り起こし、筍が出やすくすると、より柔らかく甘みのあるものに育つとか。こうした“栽培”をして、筍掘りができるようにしている観光農園も各地で増えている。

そんなことを思うにつけ、丹波に昔から自生する筍のうまさが、いっそう胃と心に滲みるようだ。

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神田 裕行

日本料理 かんだ 神田 裕行

Hiroyuki Kanda
1963年徳島県生まれ。大阪の日本料理店で4年半の修業後、86年にパリの板前割烹「TOMO」の料理長として渡仏。91年に帰国し、小山裕久氏が料理長を務める徳島の料亭「青柳」へ。赤坂の日本料理「basara」の料理長を務めるなど青柳グループの東京進出に尽力。2004年東京・元麻布に日本料理店「かんだ」をオープン。07年から『ミシュランガイド東京』で三つ星の評価を得ている。
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