日本料理 かんだ 神田 裕行 歓喜の天地、丹波

豊穣の地、丹波の旨い食材

この地の在来種を守る 大納言小豆 柳田隆雄さん

丹波の名峰の三尾山。その山裾に位置する春日町東中では、この地域でしかとれない小豆がある。丹波黒さや大納言小豆――。

明治の終わり頃から小豆栽培が衰退していく中、品質の良さを知る農家が自分たちの楽しみとして細々と作り続けてきた在来種である。その丹波黒さや大納言小豆に再び光が当たったのは11年ほど前のこと。最高の小豆を求めて、あるテレビ番組が取材に来たことがきっかけだった。

「そう言えば、母親が『これはおいしい小豆なんや』と一升瓶に保管していた“特別な小豆”があった」

そう思い出した柳田隆雄さんは地域で「黒さや会」を結成し、「伝家の宝刀」を抜いたのである。

大納言小豆 柳田隆雄さん
「よそで作れないからブランドになる」―在来種を復活させた柳田さんは、莢を手で揉み、小豆を天日に干し、一級品を作り上げる。

「もともとは建具師で、小豆栽培は畑違いやったけど、やってみて種の不思議さに惹き込まれたね。同じ種を似たような立地条件の所で植えると、最初の年はまぁまぁ同じようなもんができても、次の年から形状も色合いも味も違ってくる。ましてや、よその種をここに植えようなんて思いもよらん。子どもの時からじいさん、ばあさんに『ここでとれた種をここで育てんとアカン。別物になる』と伝え聞いてるしね。たぶん土や水の影響やと思うけど、科学的に解明することよりも、この地においしい在来種が何百年も残ってきた、そのことがロマンなんや、僕にとっては」

柳田さんが丹精込めて作る丹波黒さや大納言小豆は、その名の通り、完熟すると莢が黒く変化する。中の小豆は全体に光沢を帯びた鮮やかな色で、形は四角っぽい俵形。表皮が薄く、煮ると指頭大ほどに膨らむ。また煮詰めても型崩れせず、食べた後にかすが残らず、ふっくら柔らかな甘み豊かな味わいだ。かねてより「漬け込まなくても、茹でこぼさなくてもいい。パッと入れてそのまま炊けば、不思議なくらい柔らかなおいしい小豆が出来上がる」と感じていた神田さんは、柳田家の井戸水を口にふくんだ後、ポツリと言った。

「金気があるね。三尾山の清流を汲むこの水が小豆を作る特殊な養分になっているように思う。加えて、連作障害をなくすための努力や、ここでとれた種の中でもいい品質のものを守っていく心意気があって、丹波黒さや大納言小豆が受け継がれてきたんでしょう。店でも使いたいね」

土談義中の神田さんと柳田さん
「土が砂状で、ブルゴーニュのブドウ畑の土のようにカサカサしてますね」と神田さん。柳田さんとの“土談義”は尽きない。

収量の少ない黒さや大納言小豆が極上品であることは歴史が証明している。時は宝永2年(1702)、当時の亀山藩主は「春日町東中に産する小豆は比類なきもの」と賞揚。精選種を幕府に献納し、その幾分かを京都御所に献じたと伝えられる。以後、明治維新に至るまで、幕府・朝廷への小豆献納は続いたという。

「それが150年ぶり、2001年に復活したんです。皇太子家の愛子様ご誕生のお祝いに献上して。秋篠宮家の悠仁様ご誕生の時には、じかに献上させていただきました。これも由緒正しい謂れのおかげやね。僕らはその遺伝子を守らないかんのです」――柳田さんらの情熱が育てる丹波黒さや大納言小豆は、今後もすばらしい命の火を燃やし続ける。

  • 大納言小豆
    「大納言は殿中で抜刀しても切腹を免れる」ことから、煮ても割れないこの小豆は「大納言小豆」と名づけられたという。
  • あんこ
    柳田さんの作る丹波黒さや大納言小豆は、収量がごくわずか。「あずき工房 柳田」で手に入る。豆のほか、奥様の明子さんが煮たあんこで作ったおはぎや小豆入りドーナツ、赤飯、小豆みそ、小豆茶なども揃う。

あずき工房 柳田
TEL0795-75-1249 
http://azukikoubou.jp/

一年中、利益ある米作りを まるきん農林 堀 謙吾さん

朝晩の寒暖の差が大きく、土に朝霧の降りる青垣町は、知る人ぞ知る米の産地だ。加古川源流の清水に恵まれたここで、まるきん農林が作る丹波ひかみ米は、新潟県魚沼地方の米とよく似ていると評される。

「うちの米は主に3種類です。一つは山形県で生まれた『ミルキークイーン』。モチモチとして甘みのある柔らかいお米です。これとコシヒカリを半々にブレンドしたのが『ミルキークイーン50%』で、産直の一番人気ですね。あと、滋賀県の『夢ごこち』というお米の種を使って開発した『まるきんの夢』があります。どれも炊きたてはもちろん、冷めてもおいしい。ほかに、合鴨農法で育てた噛み応えのある『あいがもこしひかり』を作っています。合鴨は稲の生長と歩を合わせるように大きくなるんです。田んぼで活躍してもらった後は食用に販売しています」と堀謙吾さん。「会社経営的な農業」を目指す、まるきんの専務だ。

まるきん農林 堀 謙吾さん
青垣町の田植えは5月上旬。ハウス内で育てた苗を植える。また40羽の合鴨の雛を放つ田にはタニシが生息。いい田んぼの証だ。

同社では年間収入を平均化するため、稲作だけではなく鴨肉や肥料、苗、農機具の販売や農業の委託作業など、経営の多角化を図っている。また「補助金目当ての農業はしない」との方針の下、現在ある15haの田でおいしく安全な米作りを徹底する頑固さも持ち合わせている。

「先達が土作りに励んできたおかげで、ここの土はよく肥えています。私たち後継者も一生懸命土作りをして、丹波ひかみ米のブランド力を高めていきたい」――丹波の土は手を入れてこそ磨きがかかるのだ。

米
「ミルキークイーン」と「夢ごこち」は低アミロースなので、粘りが強く、甘みがある。弁当やおにぎりにうまさの本領を発揮する。

まるきん農林
TEL0795-88-0230 
http://www.marukin1.com/
営業時間8:00~18:00(日曜定休) 

丹波の新しい特産品に ブルーベリー 古谷洋瓶・暁子さん

丹波市では農業並びに農村の活性化を図ることを目的に、2002年から新規就農者に研修費や家賃等の助成を行っている。この制度を利用して、京都から丹波市市島町にやって来たのが、古谷洋瓶・暁子さん夫妻だ。「有機の専業農家」として、ブルーベリー栽培や多品種少量主義の野菜作りに励んでいる。

ブルーベリー 古谷洋瓶・暁子さん
古谷家のブルーベリー園では、土に木材チップを撒く。草抑えと、保湿と、土を肥やすためだそうだ。

「タンクローリーの運転手だった」という洋瓶さんは、体を壊したことから食べ物に興味を持ち、一直線に農業へ走ったという。4反余りの畑を借りてブルーベリー栽培を始めたのは、カフェ巡りの好きな暁子さんの提案。本を片手の挑戦だった。

「農業どっぷりは抵抗があったけど、ブルーベリーならおしゃれかなと思って。パウダーブルーやブライトウェルなど、丹波の気候に合う4品種を植えています。収穫は真夏。完熟させたのを一粒ずつ手で摘んでます。ちょっと小粒ながら、甘くて、香りがいいですよ」と暁子さん。

彼らが植えた2年後に「丹波ブルーベリー研究会」が発足し、目下、地元の人とともに「丹波の特産品に育てよう」と技術の研鑽に一生懸命だ。その一方で、幼稚園や小学校でブルーベリーの食事会を開いたり、摘み採り園に子どもたちを招くなど、“食育イベント”にも取り組んでいる。夫妻は「ゆくゆくは観光農園とか食品加工にも手を広げたい」と意欲的。

近い将来、丹波の特産品にブルーベリーが加わることを夢見ている。

奥丹波ブルーベリー農場
TEL090-9707-3766

丹波松茸の黄金時代よ、再び 松茸 松岡 緑さん

急峻な山道を、85歳の松岡さんがひょいひょい登っていく。時折「滑るで。気ぃつけや」と声をかけながら。松茸狩り名人の彼が「赤松がまだ生きとる」と言うその山に、松茸の“住処”を訪ねた。

「14年ほど前までは、山に入って百歩歩けば、60~70のマッタケが群生しとったわ。ようさんとれてな。今はもっと奥に行かんとアカンね」

丹波の代名詞とも言える松茸は近年、収量が減少の一途を辿っている。原因は松くい虫による赤松の立ち枯れだ。輸入木材に潜む松くい虫の線虫が在来のマツノマダラカミキリに寄生し、日本中に広がって赤松を“食い物”にしたのである。

「マッタケは急斜面の、水はけがようて、ある程度風通しや日当たりのええ所に生える。もちろん赤松があってやね、あと近くに池や川があるのもポイントや。ちょうどマッタケの生える時分に水蒸気が通って、適度な水分になる。マッタケは腐葉土のあるジメジメした土でなしに、からっとした土、痩せた土地を好むんですわ。この辺、コバノミツバツツジやウラジロが生えとるやろ?マッタケがある証拠や。土をちょっと掘ったら、必ずシロ(松茸菌)が出てきよる。ほら、真っ白や」

  • 植菌実験
    「果樹園感覚で松茸を殖やす」ための植菌実験では、松茸菌をまいて発根させる。目下、育成中の松茸だ。
  • 里山
    松岡さんはこの地域の区長をしている時に、里山の復興を推進した。

残念ながら丹波の山は、杉などの針葉樹の植林面積が広がったことで、松茸が棲みにくい環境に変じてきた。芝刈りなどで雑木山へ人が入らなくなると、雑木が増えすぎ、落ち葉が腐葉土を形成する。だから余計に松茸が育ちにくくなるわけだ。

しかし、松岡さんは「人の手さえ入れば、マッタケはまた、ようさん生える」と明言する。

「まず雑木を伐って腐葉土をちょっとさらえて、風通しと日当たりをようしてやる。里山の整備やね。実際、マッタケが復活した山もあるわ。ワシも山入って木ぃ伐って、その間伐材で杭をこさえて1本120円で売りよる。それがよう売れる。儲けにはならんが、木を伐ったらんと里山がアカンようになるからな」

丹波の山にはまだ180町歩くらいの赤松があるという。これを守ると同時に、荒れた山々の里山整備を進めていく。その取り組みが丹波松茸の命運を握っているとも言える。

「たとえば市島町の鴨庄から妙高山・神池寺に抜けた先、頂上までの尾根に道つけて、マッタケの環境を整備する。そこに“松茸園”を作るんや。京都の樹木医会の伊藤武先生が『果樹園感覚で松茸を殖やす』試みを続けてますな。松を作るところから始めて、松茸菌を根に植え付ける形で。なかなかうまくいかんけど、これが成功したら、山に松茸園ができますわ。そしたら、都会の人らが丹波の山に車でシャーッと来て、マッタケ狩りして『やっぱり丹波の松茸はうまいなぁ』となるやろ。そうやってもっと丹波が活気づくと、『若い時は都市部に勤めて、定年後は山暮らしをする』いうもんも増えて、過疎問題も解決や。夢の夢やけど、ワシはそんなすばらしい日が来ると信じとる」――松岡さんの目は明るい未来を見据えている。

  • クリンソウ
    里山の整備後、生えてきたというクリンソウ。
  • ウラジロ
    葉の大きなウラジロが生えている辺りに、松茸が自生するという。

猪とのだまし合いを楽しむ 猪猟師 足立善徳さん

日本人は縄文の昔から猪肉を食べていた。仏教が伝来した影響で長らく“肉断ち時代”はあったが、それでも武士は狩りをして四足獣を捕らえては「野戦食」として食べていた。江戸時代になると庶民も猪肉を「山くじら」といって、あるいは内臓の働きを良くすることから「薬食い」と称して大いに食べた。日本人の肉食思想は意外と根が深い。

猪の胆のう
猪の胆のうは干して胃薬に。熊の胆が手に入らない山村では、昔からこの「猪の胆」が利用されていたという。まさに「薬食い」だ。

その猪は日本全国の山々に生息しているが、中でも「絶品美味」の誉れ高いのが丹波産である。雑木林や竹薮を走り回ってたくましく育つことと、木の実や栗、松茸、山の芋、黒大豆などをたらふく食べる“美食家”であることが、肉をうまくするのだろう。デカンショ節で「雪がチラチラ丹波の宿に猪が飛び込む牡丹鍋」と歌われたことでも、丹波が猪の本場であるとわかる。

「猟にはまって、かれこれもう50年になりますわ」と言う足立善徳さんは、1シーズン70~80の猪を狩る。自ら開発した罠を山に仕掛け、“一挺一殺”で仕留めるそうだ。

「6月くらいから月に1、2回、2時間かけてどの辺にどんな猪がおるか見て回るんです。『秋まで駆除の檻に入ったらアカンでぇ』とか声かけながら。罠を仕掛けるのは、猪の通り道の中でも、見通しのいい直線コースやね。そういうとこなら、猪も安心して通る。そのスキを突くんや。あと、急に寒くなって霜が下りるとか、ひどい雨が降るとかいう時は狙い目やね。猪も早いとこ食べて寝床に帰りたいから、罠を警戒せずに踏んでまうことが多い。奴ら見てなくてもわかるみたいで、罠をかけたらしばらく山奥に引っ込んでる。罠の猟は、猪たちとのだまし合いやね」

かつては「5、6人のグループで猪を追い込んで鉄砲でズドン!」式の猟をやっていた足立さんだが、罠の猟の方がずっとおもしろいそうだ。

では、罠に掛かった猪はどう処理するのか。足立さんが「日本残酷物語」とニヤリと笑って語ったところによると、「その場で暴れよる猪の眉間を、ハンマーでガツンと叩いて失神させ、ナイフで刺して血を抜く。あとは内臓を出して、川で洗う」という手順。一連の作業はすべて一人でこなす。「モタモタしてたら、肉が臭くなるし、息を吹き返してこっちが襲われる。腿に30針縫う大怪我をしたこともある」というから、まさに体を張った真剣勝負である。

そんな足立さんの行動半径は広く、舞鶴、宮津、豊岡、さらに鳥取砂丘近くまでがエリアだという。

「丹波は実は人工林が多くなって、いい猪が獲れんのです。砂丘の方は雑木山でどんぐりや椎の実があるから、肉の質がいい。まぁ、昔の感覚では、私のエリアは全部丹波ですわ」

最近は駆除のための狩猟が増えているが、足立さんはやらない。師匠の「仕留めた獣は神様にいただいたかけがえのない財産やから食べるか金に換えるかせんといかん」という教えを守り、脂の乗ったいい猪を求めて山に入る。丹波の山とうまい猪肉を守りたい一念が、彼を猟に駆り立てるのかもしれない。

猪猟師 足立善徳さん
「なんぼ腕が良くても、猪のおる所を知らん奴は獲られへん」と言う足立さん。自分のエリアの“猪分布”を知り尽くしている。

山菜求めて日々“山策” 料亭旅館「大和」 余田亮一さん

氷上町石生水分れで65年。料亭旅館「大和」では、春になると主人の余田亮一さんが、手ずから摘んだ山菜の数々が料理の皿を賑わす。毎朝5時半に起きて、宝探しを楽しむように野山を歩き回るそうだ。

今ではすっかり“丹波の人”になった余田さんだが、出身は千葉県習志野市。「思い返せば20歳の誕生日、東京で出会ったここ大和の跡取り娘の妻がネクタイをプレゼントしてくれて、そのまま引っ張られて来ました」と、飄々とした語り口で奥様との、ひいては丹波との愛の“馴れ初め”を披露する。以来40年、「おいしいものを食べたい。おいしいものを出したい」一心で、丹波でしか味わえない旬の食材を探し求めてきたという。

「始終歩いていれば、たとえば枯れたワラビが見つかると、今年も芽が出るとわかります。いつもフキノトウを摘んでいた場所でも、周囲の木が育って陽が射さなくなると、もう絶えちゃうなと見てとれます。ワクワクしたり、寂しくなったりの繰り返しです。でも『山菜たちの新しい天地はどこだろう』と探して歩くのが楽しい。時に20㎞くらい離れた所まで、足を延ばすこともあります。石生に来て、そういうことが好きになりましたね。自然の流れです」と余田さん。

「丹波の山菜のことならようけ知ってる」と言う彼は、関西大学に招かれて「食から丹波を知る」という講演をしたこともある。その講義録から、博識ぶりのわかる、興味深い話をいくつか紹介しよう。

「最近は農薬を使うことが減って、田んぼにおいしいタニシが帰ってきました。丹波ではよく、これを湯がいて、春ネギのぬたに混ぜます。コゴミは土の中から、ちょうど人間が屈んだような形で出てきます。屈むが変じてコゴミの名がついたそうです。丹波の加古川沿いの何カ所にも自生しています」

「タラの芽の枝はトゲだらけです。固まって生えているので、一つの木に囚われていると、腕や脚をひっかきます。痛いです。丹波では別名『嫁たたきの木』とも言われています。山の中の日当たりのいい所や、新しく道路ができて、崖のあるような場所にたくさん生えます」

「ワラビを取りに行くのは早朝と決めています。朝露があって、ひんやりした時間には蛇が出てこないからです。あく抜きをして卵閉じや白和えにするとおいしいです」

「丹波では山椒の芽、木の芽もよく炊きます。枝がたくさんついているので後掃除が大変。山椒の臭いで目まで痛くなります。1日がかりの作業になるので、暇そうなお年寄りに頼むといいですね。ぴりっとした、春には欠かせない味です」

山や河原に自生する丹波の山菜や、竹薮の土の中で丸々と太る筍
山や河原に自生する丹波の山菜や、竹薮の土の中で丸々と太る筍は、見た目からして元気いっぱい! 丹波ひかみ米や丹波黒さや大納言小豆とともに大人気の特産品だ。

何だか、丹波の里山の風景が目に浮かぶような楽しい話ばかり。身近な所で育ったものを食べて暮らすことの豊かさに思い至る。

「身土不二」――仏教にあるこの言葉はよく食の理想とともに語られるが、「季節ごとに一番元気な命をいただく」丹波には、その精神が気負うことなく生きていると感じる。

料亭旅館「大和」
丹波市氷上町石生767
TEL0795-82-6010
https://tanbayamato.jp/

※『Nile’s NILE』2011年6月号に掲載した記事をWEB用に編集し掲載しています

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神田 裕行

日本料理 かんだ 神田 裕行

Hiroyuki Kanda
1963年徳島県生まれ。大阪の日本料理店で4年半の修業後、86年にパリの板前割烹「TOMO」の料理長として渡仏。91年に帰国し、小山裕久氏が料理長を務める徳島の料亭「青柳」へ。赤坂の日本料理「basara」の料理長を務めるなど青柳グループの東京進出に尽力。2004年東京・元麻布に日本料理店「かんだ」をオープン。07年から『ミシュランガイド東京』で三つ星の評価を得ている。
このシェフについて