茶=時代の記号

宇治茶は650年前の昔から、日本茶のトップブランドであり続けている。生産量では静岡や鹿児島のお茶に遠く及ばない宇治茶が、どのようにしてブランド価値を高め、維持してきたのか。公家や武将、茶人たちに愛された宇治茶は、時の政治や文化と密接に関わりながら、その魅力に磨きをかけてきた、それが一つの答えだろう。宇治茶の歴史をたどれば、時代が見えてくる。「時代の記号」としての宇治茶の世界を探訪したい。

京都
かつてこの森の辺りに、兄の仁徳天皇に皇位を譲るため自ら命を絶ったと伝わる菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の離宮があったという。現在は宇治上神社や宇治神社が立つ。

いざ、宇治茶の世界へ

琵琶湖から流れ出る瀬田川は、近江から京都に入ると、宇治川と名を変える。その宇治川の西に広がるのが宇治茶の郷さとだ。町中は宇治茶一色。奥地に行かずとも、川岸やJR奈良線の線路沿いには今も茶畑が点在しているし、平等院へと続く表参道には江戸時代から続く茶問屋の老舗が軒を連ねている。

ここを拠点に、宇治茶の成り立ちをたどりながら、銘茶を作り出す茶葉の産地や、自ら畑を有して製造から卸、小売りまでを手掛ける老舗問屋などを巡る旅に出かけよう。

  • 茶壺|宇治茶
    宇治の町には、多くのお茶屋が軒を連ね、茶をほうじる香ばしい香りが街角に漂っている。茶葉は“茶壺”に入れて管理され、現在のように木箱に入れられるようになったのは、明治以降のこと。
  • 宇治上神社の「桐原水」
    宇治には至る所から名水が湧き出していた。これも茶が発展した要因だろう。中でも「宇治七名水」と呼ばれた井戸が有名で、その唯一残るのが宇治上神社の「桐原水」である。

源氏物語と宇治

滔々と流れる宇治川に架かる宇治橋。起源を飛鳥時代にさかのぼる日本最古の橋である。平安時代には、藤原道長が多くの貴族たちを引き連れて京の都から南に下り、この橋を渡って、都の雅みやびとは対極にある鄙ひなの憩いを求めて宇治に遊んだと伝えられる。宇治は平安貴族に別業(別荘)の地として愛されていたのだ。

橋に立ち、向こう岸に広がる山々の深い緑を眺めていると、ここが舟遊びや紅葉狩り、歌詠み、管弦などに興じる絶好の場所であったことがうかがわれる。紫式部が『源氏物語』の最後、宇治十帖で描いた世界が、さながらよみがえるようだ。

宇治市白川
宇治市白川は名茶を産する特別な場所。古くから茶畑が広がり、一級の茶を産している。平等院を開創した藤原頼通の娘で後冷泉天皇の皇后・藤原寛子の別荘があったという静かな里だ。

さて、宇治茶である。残念ながら、平安貴族が宇治のお茶を楽しんだ場面は宇治十帖にはなく、史料も残っていない。ただ平安時代の初めには中国からお茶が伝わっていたはず。その新しい文化に貴族が親しまなかったとは考えにくい。

平安貴族は好んで宇治茶を飲んでいた――町中に立ち上るお茶の香に酔ううち、宇治茶は宮廷文化に溶け込んで時代の記号を刻印したのだと、勝手な想像に浸ってしまった。

夢うつつの“お茶ロマン”を引きずりながら、宇治茶道場「匠の館」に向かった。ここでお会いしたのは橋本素子さん。宇治茶研究は20年に及ぶ。

桜模様の着物姿で現れた彼女は、「宇治茶って、史料が少なくて、微妙なことも多いんですよね」と、その歴史の複雑さを楽しむような笑顔で前置きした上で、次のように語る。

「お茶の文化は過去に3回、中国から伝来しています。最初が、遣唐使が往来していた平安時代の初め。留学僧が煮出して飲む煎茶法を伝えたとされています。次が鎌倉時代の初期で、一般には栄えいさい西が宋から持ち帰ったと言われています。抹茶にお湯を注ぐ点茶法ですね。そして3回目が、江戸時代前期。明から、お茶の葉っぱをお湯に浸して、そのエキスを抽出する淹茶法が伝わりました。面白いのは、新しいものが入ると古いものが廃れることなく、いろいろアレンジされながら全部が重層的に残っていることです。煎茶法から京番茶、点茶法から製法を進化させた今の抹茶、淹茶法から煎茶や玉露、といった具合にね」

  • 橋本素子さん
    20年ほど前に専業主婦から、お茶の歴史研究者に転身した。フィールドワークに積極的で「産地の方に育ててもらった」という。京都光華女子大学非常勤講師を務める。
  • 縣(あがた)神社
    平等院の南門から西へ100mほどの所にある縣(あがた)神社。祭神は「木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」とされ、古代に地域の守護神として創建されたと伝わる。

ツートップ時代

では、宇治に茶畑ができたのはいつ頃だろう。伝承によれば、京都・高山寺の中興の祖である明恵上人が宇治の里人に種のまき方を教えたのが始まりとか。それが史実なら、800年以上前の鎌倉時代初期にはもう、宇治に茶畑があったことになる。

「明恵上人の時代、栂尾に茶園があったことは確かめられます。でも宇治茶の史料の初出は、それより遅い南北朝時代からなんです。室町時代には、天皇や公家、将軍に献上し、愛飲されていたという記録が残っています。宇治茶はこの頃、ナンバーワンブランドだった栂尾を急激に追い上げて“ツートップ時代”を形成しました。ただ競争は激しくて、安泰ではなかったようです」

そんな宇治茶が本領を発揮し始めるのは、戦国時代に入ってからだ。茶の湯は、戦い続きの武将たちの荒ぶる心を静めるのに効果的だし、茶会は戦の駆け引きに利用できる。村田珠光や千利休らによって作られたお茶の礼式は、だから武将たちの間で大流行した。彼らはいい茶道具に血道を上げる一方で、当然、抹茶の質にもこだわる。そんな需要に応えて、宇治は画期的な栽培法を次々と編み出したのである。

覆下茶園につながる“茶革命”

宇治はまず、より上質な抹茶を作るために、茶樹に新芽がもえだす春先、茶園全体を葭簀(よしず)と稲藁(いなわら)で葺いた屋根で覆うことを考えた。そうして日々強くなる日差しと、冬の名残の遅霜から新芽を守ったのだ。新芽はわずかな薄日を求めて面積を広げ、柔らかな薄い葉に育つという。

「日が当たると、渋み成分のカテキンが増えます。それを抑えてやると、うまみ成分の方がぐんと多くなるんです。宇治で生まれたこの画期的な製法は今に継承され、素材こそ黒い寒冷紗に変わりましたが、葭簀と稲藁の本簾茶園もわずかに残ってます」

覆下(おおいした)茶園の多い宇治の茶畑は、4月上旬頃から、黒一色になるそうだ。ただ、この覆下茶園を誰が発明したかは定かではない。橋本さんはその辺りの事情をこう推測する。

「時代的には政権が織田信長から豊臣秀吉に代わる頃。信長はまだ覆いをかけずに作った『無上』と『別儀』というお茶を愛し、茶会に使っていたと言われています。秀吉は信長への対抗意識があったのか、新しい時代を表現したかったのか、それまでとは違うお茶を求めたのでしょう。激しい産地間競争が起こる中で新しい製法の開発が進み、それを秀吉が採用したのだと思います」

覆下茶園で誕生した初めての抹茶は、秀吉も飲んだであろう「極上」だと目される。作り手は、室町の頃から御茶師として栄えた上かん林ばやし家。かの利休が強力に普及を後押しし、切腹の間際までこのお茶を飲んでいたとも伝えられる。

ちなみに茶銘の始まりは、新芽を茶園ごとに区別するための記号だったとか。宇治の茶銘は戦国時代の政争を物語る「時代の記号」にも映る。

宇治茶の作り方が描かれた古い絵
宇治特有の覆下の茶園での茶摘み、製茶、選別、出荷と、この地での茶作りの様子が細かく描かれている古い絵。全て手作業だった時代は、かなりの人出が必要だったことが分かる。

煎茶がお茶の文化の裾野を広げる

宇治が起こした“茶革命”は、抹茶にとどまらない。覆下茶園の抹茶が方々でマネされたため、「覆いなしでおいしいお茶を作る」試みが始まった。そして現在の煎茶に近いお茶が製造されるようになったのだ。

「ちょうど明から淹茶法という新しい文化が入りつつある時代でもあったんですよね。宇治田原の永谷宗円という人が1738(元文3)年に作ったと言われますが、むしろ江戸に出て山本山を創業した山本嘉兵衛さんの所に持ち込んで、販路を開いたことに功績があったと見られています。いずれにせよ煎茶は、宇治茶が一般への普及に貢献しました」

つまり私たちが今日慣れ親しんでいる煎茶の登場も、宇治が起こした革命だったわけだ。あと、江戸後期の天保年間にできた玉露も宇治の“茶革命”である。それは、お茶壺道中に象徴される抹茶の繁栄に陰りが見え、新しい方向性が模索される中で起こった。宇治では「抹茶用の茶葉で煎茶を作る」ことを考え、乾燥や揉み方の工夫を重ねた末、今のような針状のきれいな玉露を開発したのだ。それにより飲み方も変わり、40~50度のぬるい湯で淹れる文化が起こったのである。

こうして宇治茶の歴史をたどると、宇治が時の権力者や時代の要請に応えながら、伝統の継承と革新への挑戦を続けてきたのだと再認識する。

  • 宇治市伊勢田町にある老舗の茶問屋・北川半兵衞商店の蔵
    宇治市伊勢田町にある老舗の茶問屋・北川半兵衞商店の蔵。創業が1861(文久元)年だけにたくさんの“お宝”が眠る。この辺りもかつては茶畑が一面に広がり、茶問屋も多かったが、現在は住宅街に北川半兵衞商店など数軒が残るだけ。
  • 宇治橋商店街
    JR宇治駅近くの宇治橋商店街には1859(安政6)年創業の中村藤吉本店が往時の姿をしのばせる。宇治橋西詰を始点に、宇治橋商店街とあがた通りを逆三角形に結ぶこの一帯には茶畑が広がり、良質な茶が栽培されていたそうだ。

足利将軍ゆかりの名茶園

歴史は現場にある。“知識武装”を整えたところで、堀井七茗園に向かった。足利将軍が優れた七つの茶園にお墨付きを与えて直轄したと伝わる「宇治七茗園」のうち唯一残る奥の山茶園を有する卸問屋だ。といっても、二つの茶園で茶を栽培して荒茶に仕上げる茶農家であり、その荒茶を選別・ブレンドした後に電動石臼で挽いて商品として販売会社に届ける製造卸であり、自ら小売りも手掛ける“一人三役”だ。宇治茶は明確な分業制ではないので、業務の境目のあいまいなところが多い。

  • 堀井七茗園
    「宇治七茗園」のうち唯一残る奥の山茶園を有する堀井七茗園。この在来種をもとに銘茶「成里乃」が誕生した。
  • 堀井七茗園のお茶
    堀井七茗園の店頭には火鉢と茶釜が用意されており、来店した客にはお茶を振る舞う。この日は玉露を淹れてくれた。

それはさておき、6代目・堀井長太郎社長に、高台の住宅街にある茶園に案内していただいた。土が非常に軟らかく、足がずぶずぶと沈む感じ。肥料が行き届いている証拠だ。

「うちは1879(明治12)年創業で、奥の山茶園は親戚から譲り受けました。ほかの六つの茗園は、今のJR宇治駅とか市役所の近くにあって、開発でなくなりましてね。ここだけが免れました。3代目の長次郎がすごい人で、製造の機械化を考え、大正時代にれんがのトンネル式乾燥炉を開発したんです。それで品質が飛躍的に上がりました。しかも特許なんか取らずに、同業者にも教えてあげて。抹茶が宇治の産業として、より発展することだけを考えた人でした」

今も昔ながらの伝統栽培が行われる奥の山茶園では、1981(昭和56)年の改植を機に、後世に残すのにふさわしい品種の発見に取り組んだ。1800本余りの在来種を吟味して2種に絞り込み、栽培試行期間を経て、ついに2002(平成14)年に完成させた。なんと20年! 今、抹茶向きの「成里乃(なりの)」(平成22年の全国茶品評会で農林水産大臣賞を受賞)と玉露向きの「奥の山」を販売している。七茗園を受け継ぐ茶師としての情熱のたまものである。

堀井式碾茶製造機
大正時代に石炭を燃やし自動的にムラなく茶葉を乾かすれんが造りのトンネル式乾燥機「堀井式碾茶製造機」が登場。全国に普及した。今使われているのもこの改良型だ。

堀井七茗園
京都府宇治市宇治妙楽84
TEL0774-23-1118
https://uji-shichimeien.co.jp/

“150年企業”の風格

次に訪ねたのは、1861(文久元)年創業の北川半兵衞商店だ。宇治の中心街から少し離れた伊勢田に店を構える。もともとは庄屋で、「京都から大阪へ、半兵衞の土地をまたがずには行けない」と言われたほどの大地主だったという。屋号の示す山と田がその権勢を誇るようだ。

初代・半兵衞は既製の茶に飽き足らず、最高級の品質を求めて自ら茶商売に乗り出した。やがて幕府の茶商自由化の命を受けて、全国各地に販売を始めた、その年をもって創業としている。当時、宇治の問屋で行商を許可する関所札を持っていたのは半兵衞だけだったそうだ。

「生産の方はもう品評会への出品用の抹茶を作る茶園だけ。そこではもちろん覆下で、一部葭簀と稲藁の棚も設けてやってます。今は特約生産農家さんに茶樹の品質から天候、摘取期間、肥培生産管理まで徹底指導し、茶葉を厳選・ブレンドして最高級の抹茶を製造・販売する形の商いですね。最高の茶葉を選び抜く官能と、独自の精製工程並びにブレンド技術は天下一と自負しています」と6代目・北川俊幸社長は語る。

  • 北川半兵衞商店の土地
    この辺り一帯が北川半兵衞商店の土地。その繁栄ぶりが分かる。
  • 茶摘み
    やはり“茶娘”スタイルで、茶を摘んでいた。

北川半兵衞商店はまた、抹茶の伝統を守る一方で、時代に合った茶作りに挑戦するのが信条だ。例えば抹茶スイーツ。ここ数年、抹茶は飲用よりも菓子用の需要が急増。それも時代の要請と捉え、菓子メーカーに加工用の抹茶を提供する一方で、自らスイーツ作りに乗り出した。他にはない、飲用の抹茶を使った高級スイーツの開発にも意欲的だ。実は堀井さんも、妹夫婦の営む菓子店に飲用を提供し、それが好評を博している。抹茶スイーツはこれから、本物志向が進むかもしれない。

  • 北川半兵衞商店
    伊勢田の地の庄屋として広大な土地を所有していた北川家。土地を守っていく中で、茶の栽培に適したこの地に茶園を開き、栽培と製造を手掛ける、茶問屋・北川半兵衞商店が誕生した。
  • 北川半兵衞商店の北川俊幸社長
    北川半兵衞商店の北川俊幸社長。「最近は菓子メーカーが抹茶を使った商品を販売し、かなり抹茶は身近なものになっています。ただ“飲用”は敬遠されがちなので、自宅などで気軽に飲んでいただきたいです」

北川半兵衞商店
京都府宇治市伊勢田町毛語52
TEL0774-44-3338
http://www.kitagawahanbee.jp/

産地の誇り

宇治茶は約400年前から産地名表示ではなくなっている。最終加工地名表示なのだ。中心部の宇治郷とその周辺地域だけではなく、京都府全域と三重・滋賀・奈良の3県に広がっている。最も高品質の宇治茶には、例えば白川や宇治田原、南山城、田辺などの茶葉が使われることが多く、旧来の名産地が依然として強烈な存在感を放っている。

また府内一の生産量を誇るのは、宇治の南に位置する和束町だ。山の急斜面に茶畑が広がるその景観は、美しくダイナミックだ。生産農家の上嶋爽禄園5代目代表・上嶋伯協さんによると、「ここは水はけも水持ちも良く、茶の香りを引き出す気候風土に恵まれています。宇治茶の産地の中でもいいお茶がとれ、味が“秋落ち”しないんですね。問屋さんからは和束の茶を芯にしないとダメだと評価されています」とのこと。小売りも手掛け、和束茶ブランドの確立に力を尽くしている。

和束町に広がる茶園を眺めながら、宇治茶がこれから刻んでいく「時代の記号」に期待が膨らんだ。

Photo Satoru Seki Text Junko Chiba
取材協力/京都府 政策企画部 農林水産部
※『Nile’s NILE』2013年4月号に掲載した記事をWEB用に編集し掲載しています