神々の島 ― 壱岐

玄界灘の宝石箱と称される美しい島。壱岐は、『古事記』の国生みの神話に登場し、5番目に生まれた。『古事記』では、「天比登都柱(アメノヒトツバシラ)」とも呼ばれ、天と地をつなぐ架け橋の役割を担った。もともと神様と縁が深い壱岐島には、多数の神社や祠(ほこら)があり、いってみれば、今もってそこかしこに神様が住んでいるのだ。

『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に「一支国(いきこく)」として登場し、原(はる)の辻(つじ)が王都だったと特定されており、“海の道”の拠点として大陸や朝鮮半島との交流、交易、そして国防を支えた。6世紀から7世紀の古墳時代には権威の象徴といわれる巨石古墳が280基以上も築造され、いにしえの歴史が壱岐には刻まれている。

日本と大陸との歴史に常にかかわってきた壱岐は、いわば“しまごと博物館”なのである。神々が宿る島、壱岐へ。原風景の中で自然が生み出した圧倒的な造形美や悠久の歴史に思いをはせる。

原の辻一支国王都復元公園|長崎県壱岐島
弥生時代に形成された多重環濠(かんごう)集落である原の辻は、『魏志倭人伝』に登場する「一支国」の王都と特定されている。現在は原の辻一支国王都復元公園として、当時の集落や暮らしを復元。鳥居の原型といわれるものが祭儀場の入り口に立つ。

天と地をつなぐ架け橋

日本に現存する最古の歴史書である『古事記』の序章には、有名な「国生み神話」がある。これは伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)が夫婦となり、日本となる八つの島を作ったという神話だ。その中で5番目に生まれたのが、ここ伊伎島(壱岐島)である。『古事記』では天比登都柱という別名を持つ。これは「天上に達する一本の柱」であり、神話学では世界の中心を表し、天地をつなぐ“交通路”を意味するという説がある。つまり、壱岐島は天と地をつなぐ架け橋だったと考えられているのだ。

また、こんな伝説も残る。伊伎島はあちこちへ動き回る“生き島”だったので、流されないようにと、神様が島をぐるりと囲むように8本の柱を立てつなぎ止めた。そのうちの2本が観光スポットとして有名な猿岩(さるいわ)と左京鼻(さきょうばな)である。

日本の黎明期から登場する壱岐は、実に神々と縁が深い場所なのだ。それを物語るように、南北約17㎞、東西約15㎞の小さな島のいたるところに、神社や祠が点在する。島内で神社庁登録をしている社が150以上あり、加えて発祥は不明だがいつの間にか自然の中で見いだした神々を海辺や山奥に祀ったとされる小さな祠が無数にある。

京都に分霊した月讀神社

この島随一の由緒を誇るといえるのが月讀(つきよみ)神社だろう。早くも『日本書紀』にこう記されている。

顕宋(けんぞう)3年に阿閉臣事代(あへのおみことしろ)と呼ばれる官吏が天皇の命を受けて朝鮮半島の任那(みなま)に使いに出る。その際に月神に憑依された人物に出会い、「土地(京都)を月の神に奉献せよ、そうすれば良いことがあろう」という託宣があった。阿閉臣事代が天皇に月神の言葉を告げたところ、朝廷が受け入れて、壱岐県主(おがたぬし)の忍見宿祢(おしみのすくね)に命じて壱岐の月讀神社から分霊させ京都に祀った。これが現在の松尾大社の摂社である月読神社だ。またこの分霊により、壱岐の社が全国の月讀神社の元宮という説もある。

内海(うちめ)湾にぽつんと浮かぶ島と小さな鳥居。小枝すら持ち帰ることが許されていない、島全体が神域である小島神社だ。島へ渡ることができるのは、潮が引き参道が姿を現す干潮の時のみである。この場所は400年ほど前に神様が祀られたとされており、今でも壱岐神楽といった神事が厳かに執り行われている。

小島神社|長崎県壱岐島
内海湾に鎮座する小島神社。地元では「小島さん」と呼ばれ慕われている。干潮の時にしか渡れないので、防波堤の近くにはいつでもお参りできるように“小さな小島さん”が祀られている。

この壱岐神楽も島独自の文化として今に伝わる。各神社の祭礼の際に舞われる採り物もの神楽の一種であり、神社の拝殿あるいは神前の斎場に神楽座を特設して行われる。1435(永亨7)年には「神楽舞人数の事」と題して25人の神楽人の名前が記録されており、古くから壱岐神楽が舞われていたことは明確だ。さらに特徴的なのが、神職だけで約700年もの間、演舞や演奏が伝承されてきたこと。こうした神楽本来の形が継承されてきたとして、国の重要無形民俗文化財に指定されている。島内のあちこちの神社の例祭などで壱岐神楽が奉納される。年間約200回も行われるというから驚きだ。

  • 月讀神社|長崎県壱岐島
    県道に面した鳥居が目印の月讀神社は、月夜見尊(つきよみのみこと)が祭神。『日本書記』によればここから京都の松尾大社の摂社である月読神社に分霊されたと伝わる。壱岐の社が全国の月讀神社の元宮という説もある。
  • 男嶽神社|長崎県壱岐島
    猿田彦命(さるたひこのみこと)を祀る男嶽(おんだけ)神社。明治時代までは男岳全体が御神体となっており、入山が許されていなかった。祭神にちなんで200 を超える石猿が奉納されているが、昔は石牛が多かったという。

人口1万人の国際交流都市

小島神社が鎮座する内海湾には、弥生時代から古代船が停泊し、ここで小舟に荷物を積み替えて、幡鉾(はたほこ)川をさかのぼり、一支国の王都、原の辻へ向かった。島内最長の幡鉾川の流域に広がる平野、深江田原(ふかえたばる)には、約2200年前から1650年前の間、一支国の拠点として栄えた環濠(周囲に堀をめぐらせた)集落があった。中国の歴史書『魏志倭人伝』に壱岐は一支国として登場し、唯一、国の位置と王都の場所が特定できている。さらに「壱岐島には3千ばかりの家があるが、食するには足らず、南北に交易していた」とも記されており、小さい島ながら、この時代に1万もの人々が住んでいたことになる。

その証拠に原の辻遺跡から発見された船着き場跡は、大陸の高度な土木技術を取り入れた立派なもので、日本最古の船着き場跡とされる。他にも、朝鮮半島で作られた土器、中国の貨幣、人の顔をした人面石、前漢時代のトンボ玉など国内外の多様な遺物が出土しており、国際的に人や物が交流していたことを裏付けている。また当時、島内には日本人だけでなく、朝鮮半島からの移住者もいた。日本でいち早く海外の情報を入手できた原の辻は、いってみれば国際交流都市の先駆けなのである。

巨石古墳が物語ること

6世紀後半以降、日本(倭国)と新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)など朝鮮半島の国々との関係が悪化する中、壱岐では古墳が盛んに造られた。この時代、壱岐には中央部に首長とその一族が存在していて、そうした有力者たちが次々に大型の巨石古墳を築造した。

その有力者のものとされる双六(そうろく)古墳や笹塚古墳などの石室(死者を納める部屋)からは、中国大陸や朝鮮半島との交易を物語るものが数多く発見されている。特に、北斉(ほくせい)製の二彩陶器や緑釉(りょくゆう)を施した新羅土器などは、当時の倭国でも限られた権力者しか持つことができなかった貴重なものだ。壱岐島の有力者たちはそれまで築いてきた独自の交流ルートを生かし、朝鮮半島の国々と友好的な国際関係にあったことが、壱岐古墳群の石室から発見された副葬品から見えてくるという。

双六古墳|長崎県壱岐島
標高100mほどの丘陵の尾根部に6世紀後半ごろに造られた県内最大の前方後円墳、双六古墳。戦国時代以降、石室で密談が行われていた可能性があり、双六という地名から考えて賭博(双六)が行われていたかもしれない。

ちなみに壱岐の古墳は、その多くが6世紀後半から7世紀初めに造られ、長崎県内で確認されている古墳の数の約6割(280基)に当たる。昔の人たちは、大きな岩で組まれた石室の上に土を盛って造った“古墳”を見て「人間の手によるものではなく、きっと鬼が造った住みかに違いない」と、古墳を「鬼の窟(岩屋)」「鬼屋」などと呼んでいた。

もう一つ、壱岐には「その昔、島に5万匹の鬼が住んでおり、豊後国(現・大分県)から派遣された百合若(ゆりわか)大臣という名の若武者が全ての鬼を退治した」という“鬼ヶ島伝説”が語り継がれている。数多くの古墳こそが“鬼伝説”を生み出す一つの要因になっているのだ。

実際に、鬼の窟古墳という名の島内で2番目に大きい円墳がある。標高100mほどの丘陵尾根部に築造された石室の全長は16.5mと島内最大を誇り、中に入ることができる。

鬼の窟古墳|長崎県壱岐島
前室・中室・玄室の3室と羨道(えんどう)からなる長さ約17mの石室を持つ鬼の窟古墳。江戸時代の書物『壱岐名勝図誌』に見物客がたくさん訪れるという記録があり、当時から人気の観光スポットだった。
笹塚古墳|長崎県壱岐島
円盤状の台座の上に直径40mの円墳が造られた2段構造の笹塚古墳。石室からは世界で唯一の亀形の金銅製品を始め、多種の金銅製馬具が出土しており、162点が重要文化財に指定されている。
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