東の灘と謳われた酒の町・大山

庄内の米と寒冷な気候、そして月山山系の豊かな水に恵まれた山形県鶴岡市大山は、かつて東の灘と呼ばれる酒どころとして、全国にその名を知られていた。今も伝統の技と誇りを受け継ぐ町の酒蔵を訪ねた。

大山地区
かつて酒を運ぶ船が行き来した川に沿って、木造の旧家がひっそりと立ち並ぶ。中央に見えるのは酒蔵の煙突。現在の大山は、鶴岡市に合併されて大山地区となっている。

海と山々に抱かれて、はるかに広がる庄内平野。最上川や赤川の豊かな流れに恵まれた、全国でも有数の穀倉地帯だ。庄内の米は量だけでなく、古くから品種改良に熱心で、味が良いことで知られている。この上質で豊富な米こそが、庄内・大山の酒造りの源にある。

晩秋のその日、薄曇りの空に冷たい風が吹いていた。思わず上着の襟を寄せ、「寒いですね」と漏らすと、地元の人は「まだまだですよ」と笑う。「大山では、冬はいつも曇りか雪。晴れることはまず、ありません。風が強くて横から吹くので、雪が地面から吹き上げるんです」。長い冬を雪に閉ざされる多雨多雪地帯。人間には過酷だが、この厳しい気候も、酒造りには欠かせないのだ。

江戸時代に始まった酒造り

大山の町は江戸時代、庄内藩酒井家から分家した、大山藩酒井家の支配下で整えられた。その後、藩主に子ができず、江戸幕府の直轄直割領となる。酒税が国税の中心だった時代、幕領では酒税率が低かったことも、大山の酒造りの発展に影響した。水は、ミネラルを含む月山系の伏流水が豊富にある。米と水、そして寒冷な気候とそろい、税金も安いとなれば、当時の地主が酒造りに目を付けたのも当然だ。

人足にも困らなかった。冬には田畑を雪に覆われ、仕事を失う農民が、こぞって酒造りを担った。さらに、桶屋 、大工、鋳物師らの職人や運送業者が酒屋と結びつき、酒造りは町の産業として発展していく。幕府や藩の主導ではなく、庶民の力で成長した産業であることが大山の酒造りの特徴だ。

造られた酒は、当初、浜街道の宿場町でもあった大山の宿や町人たちに売られていた。しかし、1753(宝暦3)年の秋田・越後を皮切りに、川と海の水運を利用して町外への沖出しが開始されたことで、大山酒は新しい境地へと乗り出していく。後に大山が幕領から庄内藩預かり支配となり、酒の販売期間や地域の制限、茶碗売りの禁止といった制約が課せられた時も、大山の酒蔵を救ったのはこの沖出しによる収入だった。沖出しは秋田、能代、新潟、出雲崎、寺泊などへ向かい、また北前船の西にし廻まわり航路に乗って北海道から京、江戸まで届けられた。

龍澤山善寳寺
龍澤山善寳寺は海の守護・龍神様を祭る。庄内空港から大山へ向かう道中にある。山門、五重塔、龍王殿などの壮大な伽藍は1200年の信仰の歴史を物語る。

名酒・大山の名声

こうして、大山は「西の灘、東の大山」といわれる全国有数の酒どころとして成長した。1669(寛文9)年に12軒だった大山の酒蔵は、幕末から明治にかけて40軒を超える。沖出しに際して酒蔵が個々の銘柄を主張せず、「大山酒」という名で通したことも、ブランド化を後押しした。当時、北海道では北前船の商人たちに「大山をくれ」と頼むのが、良い酒を手に入れるための隠語として通っていたという。それほど大山の酒は高く評価され、愛されていた。

地元の酒に誇りを持つ蔵主たちは、技術と情報を共有して大山全体で高い造酒レベルを保ち、さらに金融や運送の危機回避を行っていた。大山の酒造りの成功は、酒造りに適したさまざまな条件に加え、蔵主たちの結束と、外へ、外へと市場を見いだしてきた先進性、上質な酒を醸すためのたゆまぬ努力のたまものだろう。記録によると、大山の清酒造石高は幕末に5000石、1882(明治15)年には1万5000石に登り、最盛期を迎える。1881(明治14)年の明治天皇巡幸の際に鶴岡行在所で大山の酒と粕漬けが献上された。そして、東北の酒造りは大山から酒田、新潟へと広がっていく。東北の酒蔵にとって、大山酒は目標だった。

だが、その大山酒も時代とともに衰退し、現在では4軒の酒蔵を残すのみとなった。昔ながらの木造家屋が立ち並ぶ町では、静かに冬の到来を待っていた。しかし、往時の繁栄を思わせる豪壮な蔵の内部では、まさに酒造りが始まる季節。杜氏を中心に、職人たちが伝統の技と最新の技術を用いて寒仕込みをする、一年で最も忙しいときだ。

大山の職人
道具を手に、急ぎ足で歩く職人。いよいよ今年の酒造りがスタートし、蔵の周囲にはぴりっとした緊張感がみなぎる。仕込みが始まると一般の見学はできない。

蔵を訪れると、当代の蔵主たちが快く迎えてくれた。多忙といえども、先祖代々造り続けてきた大山の酒を語るときには、おのずと熱が入る。「まあ、ちょっと、飲んでみてくださいよ」。控えめで柔らかな物腰の陰に、揺るぎない自信がのぞく。

2月2日には、各々の酒蔵が初搾りを振る舞う大山新酒祭りが催される。「東の灘」と称された町の誇りと酒造りへのこだわりは、今も蔵人の中に脈々と受け継がれていた。

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