ル・マンジュ・トゥー | 谷 昇 カフェ・オ・レが仕事のエンジン

谷昇さんのコーヒーとの出合いは、高校時代。奥さんとのデートで行く横浜のカフェで、いつもお決まりのハワイコナコーヒーを飲んだ。

「海が好きでしたし、やさしい酸味で、素直においしいな、と思って。マスターにすごく良くしてもらい、飲み比べさせてもらった覚えがあります。その後、結婚して、新婚旅行先にハワイを選ぶほど、思い入れのあるコーヒーでした」

18歳で料理の世界に入り、初めてエスプレッソを飲んだ。当時はまだ、東京でもほとんどエスプレッソは飲めない時代。5種類以上の豆をブレンドした、複雑で豊かな香りと、心地よい苦さと。衝撃だった。

「イタリア人のように、角砂糖を2個入れて、混ぜないで飲むのが好きです。で、最後にスプーンで砂糖だまりをなめる。格好から入るタイプなので(笑)。エスプレッソ用のカップも好き。持ち手の穴が小さくて指が入らないから、指先をそろえて持つでしょ。そうすると、女性の指が一番美しく見えるんです」

コーヒーハンターの川島良彰さんの店、「ミカフェート」のコーヒーを店で出すようになったきっかけは、ある料理学会でのこと。料理人たちに用意された昼食会場に入った瞬間、コーヒーの香りに包まれた。

「もう、ね、センセーショナルな体験でした。僕の表情がさっと変わったのをスタッフも気づいて、すぐにどこのコーヒーか聞きに行って。川島さんご本人が淹れてらっしゃったので、直接お会いして『すごいコーヒーですね。これ、どういうことですか』と伺ったのが始まりです」
 
直感で、店で出すことを決めた。

「日本のフランス料理店で、最後のコーヒーまでこだわっている店って実はあまりない。でも、最後だからこそ、こだわりたかったんです。僕にとって、コーヒーは香り。やっぱり、木の実じゃなくて、果物ですからね。でも、生の実を見たら、よくぞこれを、こんな洗練された飲み物にまで昇華したな、と思いますよ。ショコラと一緒で、人間の欲求や欲望の集大成という感じがします」

「ル・マンジュ・トゥー」谷昇氏とコーヒー
仕事を始める前に、店のカウンターに座り、砂糖入りのカフェ・オ・レを飲みながら、その日の料理について思いを巡らせる。この時間が、谷さんにとって欠かせない。

自身が飲むコーヒーは、34~35年の間、変わらずカフェ・オ・レだ。

「コーヒーに牛乳と砂糖を入れる、いわゆるフランス式のカフェ・オ・レね。朝、店に入ってここに座って、まずカフェ・オ・レを飲む。飲みながら、スタッフに今日はああしよう、とか話をします。必要なのは、おなかを満たすことより、頭を働かせるための糖分ですね。そのまま少しずつ飲んで1杯飲み終わるころに、調理場に入る。そして、仕込み、調理をしながらもう1杯というペース。仕事中は体が重くなるのが嫌なので、夜、店が終わるまで、口にするのは、このカフェ・オ・レ2杯だけです」

閉店後や自宅でのリラックスタイムには、もっぱら日本茶を飲む。

「僕にとってコーヒーは、フランスの修業時代に習慣化して、30年以上たった今でも、体に染みついている、自分を“仕事モード”に切り替えるスイッチみたいなもの。仕事には欠かせない“エンジン”ですね」

Photo TONY TANIUCHI Text Rie Nakajima
※『Nile’s NILE』2017年1月号に掲載した記事をWEB用に編集し掲載しています

谷 昇

ル・マンジュ・トゥー 谷 昇

Noboru Tani
1952年東京都生まれ。服部栄養専門学校在学中から「イル・ド・フランス」で働き、卒業後就職。76年と89年の2度にわたり渡仏し、「クロコディル」と「シリンガー」で経験を積む。帰国後、「オー・シザーブル」と「サバス」のシェフを務め、94年に「ル・マンジュ・トゥー」をオープン。2006年に改装。12年、辻静雄食文化賞専門技術者賞受賞。
このシェフについて